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728 パンをくれた人

ダフネのあとを追って部屋を出ようとしたニコの足が、ぴたりと止まった。


午後の光が届かない壁際に、ひっそりと佇む女性がいる。


ニコは首をかしげ、じっと彼女を見つめた。


「何してるの、ニコ。こっちだよ」


姉に呼ばれても、ニコは動かない。


「ニコったら」


ダフネが肩に手をかけると、ニコはそれを振り払い、とことこと壁際へ歩いていく。


幼い記憶の奥から、何かが浮かび上がる。湿った暗い路地。凍えるような石畳。空腹で泣きじゃくる自分。困った顔のダフネ。差し出されたパン。やわらかな指。優しい声――。


「……あっ!」


「ミネルバだぁ!」


弾んだ声が、部屋の空気を震わせた。針を持つ手が固まり、帳簿を追っていた目がふと上がる。女性たちの視線がミネルバに集まった。ミネルバはたまらず顔を伏せた。


「ほんとだぁ! ミネルバだ!」


ダフネも駆け寄り、その顔を覗き込んだ。予期せぬ事態にミネルバは狼狽し、目で逃げ道を探した。


「あたしだよ、ダフネ。ほら、ニコだよ」


ダフネは自分の顔を指さしながら言った。


「えっ……」


ミネルバは、まじまじと目の前のふたりを見つめた。


ふっくらした頬の女の子と、身なりの整った男の子。髪も服も清潔で、目には力がある。その姿は、記憶にある姉弟――垢にまみれ、痩せこけ、虚ろな目で空腹に耐えていた路上のふたりと、どうしても結びつかなかった。


あの頃、ダフネとニコ、そしてふたりの母親をよく見かけた。痩せて顔色の悪い母親もまた、自分と同じ娼婦の身。稼ぎは微々たるもので、子どもたちはいつも飢えていた。その痛ましさに耐えかね、客引きがうまくいった夜にはパンを買い、渡した。奈落の底にいた彼女にできる、唯一のことだった。


「ダフネ……ニコ……なの」


ミネルバの声が震えた。


「うん! 久しぶりだね」


ダフネは胸を張り、顔いっぱいに笑みを広げた。


「あたしたち、リダおばさんとユストおじさんの家に住んでるの。プリスカとアクラ、それにパウロとシラスとテモテも、みんな友達だよ」


「デミス兄ちゃんもだよ!」


ニコが姉の真似をして胸を張る。


ミネルバは、ふたりの輝く目を見つめ、唇を震わせた。嬉しさと安堵と戸惑いが一度に押し寄せ、声にならない。


リダがふたりの肩に手を添えた。


「ねえ、ふたりとも、シラスのところへ焼き菓子を届けに行きましょうね。デミスがみことばを学んでいるから、そのご褒美よ」


「はーい!」


元気な返事とともに、子どもたちはリダと一緒に部屋を出ていった。


足音が遠のいたあと、プリスカはミネルバとヴェラを別室へ招き、声を落とした。


「ダフネとニコは、母親に置き去りにされたの。ダフネが六歳、ニコが三歳の頃だったから……三年前のことよ」


ミネルバの顔から血の気が引いた。


「生きるために宿屋で下働きをしていたけれど、ひどい扱いを受けていたの。主人の機嫌が悪いと部屋を追い出されて、軒下で夜を明かすこともあったみたい」


プリスカの声は穏やかだったが、言葉のひとつひとつがミネルバの胸に突き刺さる。記憶の中の、幼いふたりの泣き声が耳に戻ってくる。


プリスカもふたりを引き取りたかった。けれど当時の住まいはあまりに狭かった。途方に暮れていたとき、ユストとリダが姉弟を迎え入れてくれた。もともとふたりは、貧しい者に食料を分かち、身寄りのない子どもに門を開くことを厭わない夫婦だった。


ミネルバは両肩を震わせ、口元を両手で覆った。


「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」


絞り出すような声とともに、大粒の涙が床にこぼれ落ちた。


ヴェラがミネルバの肩に手を置く。慰めの言葉は添えず、ただぬくもりを分かち合うようにそばにいた。


ミネルバの涙は、止まらなかった。



数日後。


プリスカとアクラの店に、ダフネがふらりと入ってきた。


何も言わず、棚をなぞりながら歩き回る。言いたいことがあるのに、どう言えばいいかわからない――そんなもどかしさが、背中ににじんでいた。


プリスカとアクラは目を見交わし、黙って待った。


やがてダフネは足を止め、自分のつま先を見つめたまま声を絞り出した。


「……ヴェラも、母さんやミネルバと同じなの?」


プリスカの喉の奥で、言葉が絡まる。誰がヴェラの過去を口にしたのか。逡巡していると、ダフネが続けた。


「こないだ、ヴェラがリダおばさんの手伝いしてたとき、他の人が言ってたんだ。『あの人も昔は、あの通りにいたんだよ』って」


軽はずみな噂話が、人をどれほど傷つけるか。プリスカの胸に苦いものが広がった。


「……そうだよ」


答えたのはアクラだった。声は穏やかで、揺れがない。


「以前はね。でも今は、プリスカやリダみたいに、昼間の仕事をしてるんだ」


「そう……」


ダフネは唇を噛み、うつむいた。小さな顔に、影が差す。店の外を行く足音だけが、遠くで響いていた。


しばらくの沈黙のあと、ダフネが顔を上げた。


その瞳に、涙が浮かんでいた。


「ヴェラも……消えちゃうのかな」


「母さんみたいに」


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God bless you✨

by manawithpen | 2026-03-10 06:00