728 パンをくれた人
2026年 03月 10日
ダフネのあとを追って部屋を出ようとしたニコの足が、ぴたりと止まった。
午後の光が届かない壁際に、ひっそりと佇む女性がいる。
ニコは首をかしげ、じっと彼女を見つめた。
「何してるの、ニコ。こっちだよ」
姉に呼ばれても、ニコは動かない。
「ニコったら」
ダフネが肩に手をかけると、ニコはそれを振り払い、とことこと壁際へ歩いていく。
幼い記憶の奥から、何かが浮かび上がる。湿った暗い路地。凍えるような石畳。空腹で泣きじゃくる自分。困った顔のダフネ。差し出されたパン。やわらかな指。優しい声――。
「……あっ!」
「ミネルバだぁ!」
弾んだ声が、部屋の空気を震わせた。針を持つ手が固まり、帳簿を追っていた目がふと上がる。女性たちの視線がミネルバに集まった。ミネルバはたまらず顔を伏せた。
「ほんとだぁ! ミネルバだ!」
ダフネも駆け寄り、その顔を覗き込んだ。予期せぬ事態にミネルバは狼狽し、目で逃げ道を探した。
「あたしだよ、ダフネ。ほら、ニコだよ」
ダフネは自分の顔を指さしながら言った。
「えっ……」
ミネルバは、まじまじと目の前のふたりを見つめた。
ふっくらした頬の女の子と、身なりの整った男の子。髪も服も清潔で、目には力がある。その姿は、記憶にある姉弟――垢にまみれ、痩せこけ、虚ろな目で空腹に耐えていた路上のふたりと、どうしても結びつかなかった。
あの頃、ダフネとニコ、そしてふたりの母親をよく見かけた。痩せて顔色の悪い母親もまた、自分と同じ娼婦の身。稼ぎは微々たるもので、子どもたちはいつも飢えていた。その痛ましさに耐えかね、客引きがうまくいった夜にはパンを買い、渡した。奈落の底にいた彼女にできる、唯一のことだった。
「ダフネ……ニコ……なの」
ミネルバの声が震えた。
「うん! 久しぶりだね」
ダフネは胸を張り、顔いっぱいに笑みを広げた。
「あたしたち、リダおばさんとユストおじさんの家に住んでるの。プリスカとアクラ、それにパウロとシラスとテモテも、みんな友達だよ」
「デミス兄ちゃんもだよ!」
ニコが姉の真似をして胸を張る。
ミネルバは、ふたりの輝く目を見つめ、唇を震わせた。嬉しさと安堵と戸惑いが一度に押し寄せ、声にならない。
リダがふたりの肩に手を添えた。
「ねえ、ふたりとも、シラスのところへ焼き菓子を届けに行きましょうね。デミスがみことばを学んでいるから、そのご褒美よ」
「はーい!」
元気な返事とともに、子どもたちはリダと一緒に部屋を出ていった。
足音が遠のいたあと、プリスカはミネルバとヴェラを別室へ招き、声を落とした。
「ダフネとニコは、母親に置き去りにされたの。ダフネが六歳、ニコが三歳の頃だったから……三年前のことよ」
ミネルバの顔から血の気が引いた。
「生きるために宿屋で下働きをしていたけれど、ひどい扱いを受けていたの。主人の機嫌が悪いと部屋を追い出されて、軒下で夜を明かすこともあったみたい」
プリスカの声は穏やかだったが、言葉のひとつひとつがミネルバの胸に突き刺さる。記憶の中の、幼いふたりの泣き声が耳に戻ってくる。
プリスカもふたりを引き取りたかった。けれど当時の住まいはあまりに狭かった。途方に暮れていたとき、ユストとリダが姉弟を迎え入れてくれた。もともとふたりは、貧しい者に食料を分かち、身寄りのない子どもに門を開くことを厭わない夫婦だった。
ミネルバは両肩を震わせ、口元を両手で覆った。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
絞り出すような声とともに、大粒の涙が床にこぼれ落ちた。
ヴェラがミネルバの肩に手を置く。慰めの言葉は添えず、ただぬくもりを分かち合うようにそばにいた。
ミネルバの涙は、止まらなかった。
*
数日後。
プリスカとアクラの店に、ダフネがふらりと入ってきた。
何も言わず、棚をなぞりながら歩き回る。言いたいことがあるのに、どう言えばいいかわからない――そんなもどかしさが、背中ににじんでいた。
プリスカとアクラは目を見交わし、黙って待った。
やがてダフネは足を止め、自分のつま先を見つめたまま声を絞り出した。
「……ヴェラも、母さんやミネルバと同じなの?」
プリスカの喉の奥で、言葉が絡まる。誰がヴェラの過去を口にしたのか。逡巡していると、ダフネが続けた。
「こないだ、ヴェラがリダおばさんの手伝いしてたとき、他の人が言ってたんだ。『あの人も昔は、あの通りにいたんだよ』って」
軽はずみな噂話が、人をどれほど傷つけるか。プリスカの胸に苦いものが広がった。
「……そうだよ」
答えたのはアクラだった。声は穏やかで、揺れがない。
「以前はね。でも今は、プリスカやリダみたいに、昼間の仕事をしてるんだ」
「そう……」
ダフネは唇を噛み、うつむいた。小さな顔に、影が差す。店の外を行く足音だけが、遠くで響いていた。
しばらくの沈黙のあと、ダフネが顔を上げた。
その瞳に、涙が浮かんでいた。
「ヴェラも……消えちゃうのかな」
「母さんみたいに」
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