「ありがとう、祈ってくれて」
フィベは涙に濡れた顔を上げ、小さく息を吐いた。プリスカはやさしく微笑み、亜麻の手巾を差し出した。
「あら、これ」
フィベはその手巾を見つめた。それは、伯母キュテレアと共にプリスカを助けたあの日、彼女の涙を拭うために渡したものだった。
「ほんとうなら、新しいものをお渡しできれば良かったんだけど……」
プリスカは少し目を伏せた。石畳に倒れ込んだときの冷たさが、掌によみがえる。
「これ、まるで真新しい手巾みたいだわ。きれいに洗ってくださって、ありがとう。とても嬉しいわ」
フィベは手巾を丁寧にたたみ、胸元にしまった。今日は、祈ってもらうために、プリスカを訪れていた。過去を打ち明け、心の深い傷に聖霊が触れてくださることを願って。
革細工屋の二階、夫婦の私室には、春のやわらかな光が差し込んでいた。
「若くして嫁いだの。十六のときだったわ」
窓の外、遠くの街並みに目を向けながら、フィベは打ち明けはじめた。
「けれど、夫はほどなくして病に倒れ、帰らぬ人となってしまって。両親は、まるで追い立てるように次の縁談を探し始めたわ」
冬の星のように澄んだ瞳。白い肌に薔薇の花びらを散らしたような頬。その美しさを思えば、次の嫁ぎ先もすぐに決まったのだろうとプリスカは思った。
「……ところがね、次の方も婚礼の直前に息を引き取ったの」
えっ、と声を上げかけ、プリスカは慌てて口を閉じた。
「それならばと、両家は亡くなった婚約者の弟とわたしを添わせたわ。けれど、数カ月も経たないうちに海難事故に遭って……行方が知れなくなって。わたしは実家に返されたの」
声が、風にかき消されそうなほど弱々しくなっていく。
「それ以来、わたしは夫を殺す女という悪名を着せられたの。両親までが『おまえは神に呪われた娘だ』って……」
唇をきゅっと引き結び、こみ上げてくるものを押し戻す。
「こんな恥ずかしい娘を外に出すことはできない。そう言われて、家に閉じ込められた。炊事、洗濯、掃除……それだけの毎日」
冷たい扱いや悪名そのものよりも、“自分は神に呪われた者で、もう神に愛されることはない”という絶望が、徐々に心を蝕んでいった。
「わたし、学ぶことが大好きだったの。本を読んだり、知識のある人の話を聞いたりして、知らなかったことを知るのがほんとうに好きだった」
小さく息を吐き、足もとに視線を落としたまま続けた。
「でも両親は、呪われた身のおまえには知識など無意味だと言って、すべてを取り上げてしまったの」
プリスカは立ち上がり、フィベの隣に腰を下ろした。
「このまま、知識という光も差さない闇の中で、一生を終えるのだろうか……。そんなふうに思ったわ。それは、生きながら死んでいくのと同じだと思った」
フィベはプリスカに顔を向けると、少しだけ声を明るくした。
「そのときよ。伯母のキュテレアが……ケンクレアに住む彼女が、わたしの窮状を聞きつけ、助けの手を差し伸べてくれたの」
ある日、家の扉が激しく叩かれた。現れたのは、毅然とした面持ちのキュテレアだった。彼女は一言も発さず、フィベの手を取り、待たせてあった輿へと導いた。両親が声を荒げて立ち塞がろうとしたが、キュテレアの鋭い一瞥に何も言えなくなり、娘を彼女の手に委ねた。
「屋敷に戻った伯母は、これからは自分の好きに生きればいいと言ってくれたわ。もし嫁ぎたいなら、今度こそ、わたしを大切にしてくれる人を探してあげるとも」
プリスカは、こらえていた息をそっと吐き出した。フィベはその気配に気づいたのか、微かに微笑んだ。
「わたしは、もうどこにも嫁ぎたくないと答えたわ。ただ伯母の側で、お役に立ちたいと。……伯母は、わたしに『書物の読み聞かせ』の役を与えてくれたの。彼女は無類の本好きだけれど、近頃は目が衰え、思うように文字を追えなくなっていたから」
「まあ……。あなたの願いが叶えられたのね」
「ええ。小さいころからの夢だったのよ、書物に囲まれて暮らすのが……。だから、今はとても幸せなの。両親のことも、主イエスの教えに従って、すでに赦したわ」
白い頬に薔薇色の微笑みが咲きかけたが、すぐに消えた。
「でも、ときどき不安になるの。明日、この幸せがひっくり返って、また“呪われた女”に戻ってしまうんじゃないかと」
「フィベ」
プリスカはフィベの肩に手を置いた。
「イエスは、あなたを『呪われた女』などとは決して呼ばないわ。『愛する娘』と呼んでくださるわ」
フィベの顔が、静かに崩れた。涙が頬を伝い、彼女は両手で口元を覆った。
「あなたが不安になるのは、よくわかる。でも思い出して。闇の中で光を求めていたあなたに、神はキュテレアを遣わしてくださった。それは、神があなたを見捨てていない証しよ」
プリスカは、フィベの手を包みこんだ。
「一緒に祈りましょうね。あなたの心の傷が癒されるまで、何度でも」
フィベは深く頷いた。ふたりは、もう一度、頭を垂れて祈り始めた。
窓の外では、港へと帰る船の帆が、夕陽を浴びて金色に輝いていた。
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👩 ひゃっほぉ〜〜! 清苦正子(きよくただしこ)でぇーす。
いやぁ~、ここんとこ目が離せない、ハラハラドキドキの展開が続いたわね〜。
アペレとパウロ、そしてテモテの関係がやっと落ち着いたと思ったら、今度はプリスカが襲われるなんて! イリアスやフィベの胸の内にある葛藤も描かれて……。でも、これで一段落……したっぽいよね。ふぅ、一安心。
ってことで、ここでお知らせでぇ〜す!
来週と再来週の配信は、お休みになりまーす。
これからGW(ゴールデンウィーク)に突入するでしょ? みんな、旅行に行ったり子供たちのイベントがあったり、いつもと違うスケジュールで動くかなって。
そうなると「パウロとテモテの物語」をゆっくり読む時間が取れなくて、未読が溜まっちゃうのも申し訳ないし……。なので、ここは思い切って、リフレッシュ休暇をいただくことにしましたぁ!
というわけで、次回の配信は 5/11(月)になりまぁ~す。
ちょっと間があいてしまうけど、パウロたちのこと、忘れないで待っていてあげてね。
追伸:
ちなみに筆者は、安定の「通常運転」です!どこへも行かず、ひたすら自宅でパウロとテモテの物語を紡ぎ続ける予定です🖊️